記憶を記録に: 『子供の夢』 = 機関士・船長 =

人間は誰でも、生まれて物心がつくと『夢』をもつようになる。

現在の世の中では、その夢は『宇宙』へ向かうこともあり、『海底』の探査へ進むこともあろう。そして、私の時代は、『モノを動かす』、すなわち『操縦する』と言う方向を考える子供が多かったように思う。

1945年8月15日、日本は敗戦となり、連合軍の配下に入った。私は、新潟、福島の疎開先から、生まれ故郷の横浜へ戻った。横浜も米軍の大空襲を受け、一面の焼け野原となっていた。幸いにも、祖父母の家の一角は焼失をまぬかれていた。

しかしながら、祖父母の家から横浜の港、そして、横浜駅の方向を見ると、見渡す限り何もなく、港近くのわずかな建物と横浜駅の骨組み、京浜急行の戸部駅に焼けた鉄骨だけであった。

戸部小学校や西中学校の建物は、鉄筋コンクリートで残り、そしてよく遊びに行っていた掃部山公園はまじかに見えたが、井伊直弼の銅像は戦時中の供出のため、土台しか残っていなかった。周辺の焼け跡には人間の営みとしての焼けトタンのバラック小屋が建ち始めていた。

私の子供のころの『夢』は国鉄の機関士であった。戦後は蒸気機関車が多かったが、徐々に国鉄の電化整備、復興と共に、電気機関車、省線(国電)の姿も多くみられるようになった。

横浜で育った子供の夢は、機関士と船長が身近で、ここでは、『機関士』に焦点を当てて、話を進めることとしたい。

 

蒸気機関車からは、『活力』をもらう

 

私の蒸気機関車の思い出は、疎開先の会津若松からの帰り道、会津若松から磐越西線で東北線の郡山へ出た時に、初めて乗った。

資料:『蒸気機関車の興亡』(1996.1.31.斎藤 晃 著、NTT出版)の冒頭に『遠い未知の世界のあこがれ、石炭のにおいやレールのリズムが心に残る。鉄の塊があえぎながら坂道を上る姿や躍動するロッドなど、”生き物”のような感情,単なる機械を越えた存在として人の心を引き付ける』と述べられている。

私も、まさしく、そのときから,その通りだと感じてきた。疎開先の会津若松から磐越西線で郡山へ出て、東北線で上野へ、そして、横浜へ帰ってきたが、そのときの石炭の煙と匂いはよく覚えている。しかし、この時に客車をけん引していた蒸気機関車が、

C51形であったか、D51形であったかは定かではない。子供心に、あの蒸気機関車の煙突から出す煙、そして、ピストン部分から出る強烈な蒸気は子供心に焼き付いている。

C51形蒸気機関車は、資料によれば、1919年に開発されて,幹線旅客列車用大型

テンダー式蒸気機関車で、1928年までに289両が製造されて、C51236号機は『お召列車』にも使用された記録がある。

また、1930~1934年には『つばめ号』をけん引して、東京~名古屋間を走行した。

そして、外観は、イギリス風、製造した形式は、189000形であったが、あまりにも桁数が大きすぎて。改定して、『C51』に、そして、C51以来、C61,C62の製造が昭和23年に終了した。

もう一方で、私の蒸気機関車の思い出は、田舎が群馬県の高崎に近い藤岡で,祖父母がここの出身であったので、子供の時から、冬によく遊びに行った。横浜からだと、東神奈川から横浜戦で八王子へでて、そこから、八高線で群馬藤岡へ出た。

毎回大変な時間を要するのと、冬の群馬は『かかあ天下と空っ風』と言う通り、北からの”赤城おろし”が凄まじく、祖母の生まれた家に泊まるのであるが、子供たちは、正月は早く起きて,釜戸の火をおこしたり、広い庭の正月飾りにお餅やうどんをお供えしなくてはならず、この習慣がつらかった。

疎開先の新潟や福島では。豪雪を経験したが、この群馬では雪はほとんど降らなかったが、何しろ北からの赤城おろしが強烈で、どこの家にも、北側には大きな孟宗竹の竹藪が必ずあった。

この行き来の八高線は蒸気機関車で、これも資料によれば6760,8629形、C57,C58形、そして、D51形蒸気機関車がけん引していた。これらの力強い姿は記憶に残っている。

また、小学校の時には横浜駅の隣の高島町に、蒸気機関車の扇方の機関区があり、10両以上の蒸気機関車が駐機されて、その扇方の要の部分には、丸い『転車台』があって、機関車をあらゆる方向に移動させていた。そして、そこで、操車作業をひっきりなしに行っていたのが、小型のC11型蒸気機関車であった。

このC11形機関車がひっきりなしに行き来しているところには、高島桟橋へ通じる踏切があってC11型機が行ったり来たりするたびに忙しく、遮断機が上がったり下りたりして、そのそばで、私はずっと見ていたものだった。

機関士のおじさんが気づいて、『坊や、機関車に乗ってみるかい』と声をかけられ、C11形機の運転台に乗せてもい、機関助手が石炭をくべるところを見ていると、『やってみるか』と言われて、石炭をくべる手伝いをさせてもらったことがあった。釜の近くは相当熱く、冬はよかったが夏は大変で、何回も乗せてもらって、すっかり機関士にあこがれてしまった。

(添付写真の『転車台』はメキシコの国鉄の機関区のものである)

 

メキシコ国鉄の機関区と転車台

 

昭和5年、東京~国府津間は電化されていたが、当時最新鋭のEF52形電気機関車でも、C51形蒸気機関車と比較して優れていると評価されなかったので、『つばめ号』は東京からはC51形蒸気機関車がけん引して、国府津からは、デビュー早々のC53形蒸気機関車を補助機関車として勾配を越えて御殿場経由で沼津へ走らせていた。

東海道線の全線電化は、丹那トンネル開通後の昭和31年で、この時は、EF58形とC62形の編成で運行されていた。

蒸気機関車は、戦後C57形、C59形につづき、昭和22~23年に、D51形D52形のボイラーを活用した馬力の大きい客車用、C61型、C62型が登場した。

 

あの石炭の匂いの懐かしい蒸気機関車が消えたのは

 

国鉄の電化事業は、複雑な付帯設備などと、戦争中は敵の攻撃に弱いとの陸軍の反対もあり、大都市と長いトンネルのある場所に電化区間は限られていた。東京~沼津、東京~浦賀、東京~甲府、横川~軽井沢、水上~石打、や通勤電車の走る、東京、大阪近辺などであった。

最初、EF53型電気機関車とC53型蒸気機関車の性能曲線の比較が行われ、低速と上り勾配ではEF53型が優れているが、高速走行ではC53型が優位となった。

その後、EF57型電気機関車の登場により、出力が25%アップし電気機関車が優位となり,『電化』により、日本の蒸気機関車の『煙』が消えることとなった。

その煙が消えた後、現在、日本の地域の観光列車として復活している路線がある。

(1)『SLぐんま・よこかわ』:高崎~横川、C51型蒸気機関車の20号機が活躍している。

(2)『SLばんえつ物語』:郡山~会津若松、C57型蒸気機関車の180号機が活躍している。

(3)大井川鉄道:金谷、C10型蒸気機関車の3号機、C11型蒸気機関車の19号機、ならびに227号機が活躍している。

(4)『SLやまぐち号』:山口線、C57型蒸気機関車1号機、D51型蒸気機関車200号機が活躍している。

 

ペルー、クスコ~マチュピチュ間ですれ違った蒸気機関車

 

私は、1971年3月、駐在地メキシコの次のブラジルのサンパウロへ向かうとき、ペルーに立ち寄り、クスコからあの有名なインカ帝国の遺跡と言われる、マチュピチュ遺跡を訪問した。

インカ帝国の首都、クスコ(ケチュア語で、“へそ”の意味)は海抜、3,440メートルの高地にあり、そこからアマゾン川の源流に当たるウルバンバ川に沿って鉄道が敷かれていて、最初に訪問した時は観光列車のディーゼル列車が一往復、クスコからマチュピチュ遺跡(海抜2,400メートルまで下る)まで運行されていた。

この鉄道は単線で、マチュピチュからさらに先まで運行されているが、途中、マチュピチュの手前、オリャンタイタンボ辺りで、クスコへの上り列車を持つことになっていた。その駅で上り列車を待つ間に、先住民(インディヘナ)の人々が、近くの村から自作の織物や民芸品を観光列車目当てに、車窓近くまで来るので混雑していた。

しばらくして、下流の方から上り列車が見えてきて、それは四両の客車をけん引した蒸気機関車であった。(添付写真参照)私は、その姿をカメラに収めるのに夢中で、機関車の形状や車体番号を記録することを忘れていた。

 

1971年3月、ペルーのクスコ~マチュピチュ間で撮影した蒸気機関車(撮影:エンリケ設楽)

 

後で、メキシコの1910年の『メキシコ革命』で、革命軍が政府軍から奪って使用していた蒸気機関車と似ていることに気付いた。

この蒸気機関車の写真は、この時に撮影したもので、これは普通列車で、近隣の村の人々の足となっていた。(添付、メキシコ革命時の蒸気機関車、セピア色の民芸市場で買い求めたもので作者は不明)

1910年「メキシコ革命」の際、革命軍が奪った政府軍の蒸気機関車

私の乗った観光用のディーゼル列車は、天井がガラス張りで、ウルバンバ川に沿って走る山側は、丁度この時期、満開の黄色のエニシダが群生していて、車窓を楽しませてくれた。観光列車は、クスコ~マチュピチュ間、一日一往復で、マチュピツ駅に着くと、観光客が遺跡を見学して数時間かかる間、駅で待っていて、帰りも同じ列車でクスコへ戻るのであった。

現在は、列車とバスの併用で、一日二往復のシステムで効率的に輸送されており、マチュピチュ駅の周辺にはホテルや土産物店が、数多く並んでいて様変わりしている。

 

チリ―北部の鉱山鉄道

 

チリ―では鉱物資源が豊富であるので、鉄道網が発達していて、特に南北に細長い国土、そして同じく南北に長く連なるアンデス山脈に沿って施設されている。

国土のほぼ中央に位置する首都サンチャゴから、真東にアンデス山脈を越えて、隣国アルゼンチンへの国際鉄道は有名で、チリ―側の急斜面を登り、クリスト・レデント―ルの国境を通って、その後はなだらかな下りを、アルゼンチンの葡萄酒生産で有名なメンドサの町への道は、南米の最高峰、アコンカグア山の右側を通るこの区間は、一部は蒸気機関車がけん引していた。

 

私は、これに乗りたかったが、今は無く、残念に思っている。

と言うのは、この峠は冬になると豪雪に見舞われ、度々雪崩が起こるのであった。

ついに、おお雪崩にあって、1984年6月に鉄道は運行できなくなり、不通となってしまった。

今は、国際バスが運行されており、私は、2000年5月に、ペルーのリマ発、サンチャゴ経由アルゼンチンのブエノスアイレス行の国際バスで、この峠の国境を越えてアルゼンチンへ行った。

この時に、かつての鉄道を見たが、チリ―側では、至る所、線路が雪崩で崩落しており線路は遮断されていた。

国境を通過してメンドサへ至る部分は線路も鉄橋も、ほぼ無傷のまま残っているのが見られた。このメンドサ~サンチャゴ間には国際観光鉄道の計画もあると聞いている。

現在の国際バスは、チリ―側の急な坂道を日本の日光の『いろは坂』のように上ってクリスト・レデント―ルの国境を超える。その峠は木々が一本もない岩山であった。

 

 

一方、チリ―の北部地帯は、太平洋岸に沿ってアタカマ砂漠で、ほとんど雨の降らない地域に鉄道が敷かれている。主に鉱山から西側の太平洋の専用港へ施設されていて、それを南北へ結ぶ路線が発達しており、銅鉱石を中心とする鉱物資源と共に、精錬のための化学製品を輸送している。

チリー北部、鉱山地域の電化部門、トコピージャ~エル・トコ間で硝酸塩を輸送する蒸気機関車

 

添付にあるのは、『アントファガスタ大学』の蒸気機関車の図面であるが、このような四つの動輪(2-8-2)にテンダー車を連結した蒸気機関車が活躍していたようである。同じく写真で示すのは、電化された山岳部を走る電気機関車にけん引された硝酸塩を輸送する、トコピージャ~エルトコ間緒鉄道の姿である。

 

チリー北部、アタカマ砂漠地域の鉱山で活躍した蒸気機関車のアントファガスタ大学作成の図面

 

電気機関車は無口な働き者

 

私は、子供のころ、祖母や母に、よく横浜駅へ汽車を見に連れて行ってもらった。

横浜の住んでいた、上原から市電で横浜駅へ、当時、3番の市電が、六角橋から山元町まで走っていて、上原から御所山、平沼橋、鷹島町、その次が横浜駅であった。

横浜駅で、入場券を買って、東海道線の下りホームの最先端部分へ行って、電気機関車にけん引された東海道線の列車を見ていると、当時は普通列車で、停車時間が10分以上あったので、先頭の機関車を見ていると、機関士、の人が『坊や、運転台に乗ってみるかい』と声をかけてくれた。

そして、記憶ではEF56形、EF57形電気機関車で、先の方に、デッキがついていて、その階段から、機関車の正面中央の扉を押すと中にはいることができた。

運転台のところは、正面の扉を挟んで、左右に運転席と助手席の二つがあり、進行方向左側が、運転席であった。運転台の席に座らせてもらうと、子供心に感激して、機関士が計器の説明をしてくれたが、ほとんどうわの空であった。

左側の運転席の計器は窓側に、大小二つのブレーキ・コックがあり、大きい方は、客車をけん引したときに、列車全体に作動するブレーキであった。また、右側に車輪を作動させるハンドルがあり、レバーを手前に引くと、徐々に機関車が動き出すのであった。

このようにして、何回も運転台に乗せてもらい、同時にホームから電気機関車の外観の特徴をつかもうと必死だった。

EF56形機関車は、外観が少し丸みを帯びた感じで、パンタグラフの位置は、二つが中央部分に寄ったデザインであった。EF57形は、全体の外観は四角張った形でパンタグラフの位置は、56型とは逆に、運転台のひさしの部分から突き出しているようなデザインであった。このような特色があり,あとからのEF58型は、56と57の中間のような、バランスの取れたデザインであった。

また、EF55型は流線型の機関車で、EF53型は、前後が自動車のボンネットのようなデザインであった。

電気機関車は、『無表情』である。蒸気機関車は、出発するときに、煙突から勢いよく黒い煙を噴き上げ、下のピストン部分から、左右へ真っ白な蒸気を噴出して、”さーゆくぞ“という大きな声を出してロッドが大きな動輪を動かす。

この力強さと比較して、電気機関車は、運転台の動力レバーを手前に90度引くと、機関車の動輪が、”無言で”動き出し,出発時に連結する客車や貨車が引っ張られるときの連結器の音が、順番に後方へ響いて伝わるだけである。

それは、蒸気機関車と対照的である。蒸気機関車は勾配の強い坂道を、よく表現される『何んだ坂,こんな坂』と言われるのに対して、電気機関車は静かに登ってゆき、一見、鉄道ファンにとっては、“ものたりなさ”を感じるのは、わたくしだけだろうか。

 

省線(国電)のそれぞれの顔

 

これまで、『機関車』について述べてきたが,『電車』にも、それぞれの顔と魅力が詰まっている。

電車の行き先は、今は、正面の上の部分に電光表示されているが、私の子供のころは、電車の正面から見て、運転台の窓の部分は、左右の目で、真ん中の行き先表示版は“鼻”であり、連結器は”口”と表現できるものであった。そして、先頭車両の形式によりさまざまな”顔“があり、”鼻”の行き先版は、行き先によって、差し替えるので、その名前が魅力を醸し出していた。

子供のころ住んでいたのが横浜であったので、それを見るのは限られていたが、当時の省線(国電)の京浜東北線、横浜線、そして、同じ線路を使っていた東海道線と横須賀線をとっても違った魅力があった。京浜東北線は、桜木町~大宮間を走っていたが、その先頭車両は、63型電車であった。

運転台、モーター、パンタグラフがついた、『クモハ63型』車両で,外側正面の行先表示板は『桜木町』と『大宮』であった。

この車両は,わたくしが小学校五年の時に、桜木町事故(パンタグラフが架線に引っかかって、火災を起こした)を起こしてしまった教訓から、先頭車両のンパンタグラフを除去、三段窓の三段目までを開閉できるように改造、後続車両との連結部分を通行できるように改造して、ジャバラを設置、車両座席下のドアー開閉コックを操作できるように明示した。これらの改造を実施した。

また、東神奈川~八王子間の横浜戦の先頭車両は、63型よりもまるみを帯びた『クモハ62型』車両が使われていて、ぺちゃんこの63型より魅力的で、わたくしは模型を製作して楽しんだ。

このころ、小学校高学年になるころには、野毛のあたりに模型店ができて材料としての、ボール紙、薄い板、ラッカー、ニス、セメダインなどを買うことができた。そして、本物そっくりに色を塗って、庭の花壇の周りに、木の線路を敷いて楽しんで遊んだ。

横須賀線も1949年(S24)ころの先頭車両は、モハ32型の四角張った車両であったと記憶しているが、色彩は、白とブルーに変わっていたと思われる。

また、1963年になると、クハ76型、モハ71型の湘南型車両が採用された。現在の横須賀線の車両は『モハE217~』型の記号がつけられている。

一方、東海道線は、色彩は、今の湘南電車のオレンジと緑が採用されており、先頭車両に、一時期、流線型で正面には出入り口のない、クハ80型が使われ流線型で、この前に独立した機関車のような存在として、”郵便“と〝荷物”を専用とする、モユニ81型がけん引するような形で連結されていた。このモユニ81型はパンタグ、ラフが二基設置されていた。

この記号は,“モ”がモーター、“ユ”が郵便、“二”が荷物である。このように電車は、独特の『顔』を持っていた。

そして、車体の色彩は京浜東北、横浜線ともに〝こげ茶”色で今と違うが、東海道線、横須賀線は今の色彩を継承している。こげ茶色は、戦前からの省線、鉄道省の名残である。

 

車両の記号、いま昔

 

 

(1)蒸気機関車:

動輪の数を、A,B,C,D,Eの順に表記した。既にに述べた、C51形は1919年に開発.幹線旅客列車用大型テンダー蒸気機関車で、1928年(S3)までに289両が製造された。

C53形(1928~1930)は米国よりの輸入した機材を改造。C54形(1931)、C55形(1935~1937)、C57形(1937~1047)、C58形((1938~1946)は主要ローカル線。

C59形(1941~1947)は東海道・山陽本線向けに開発された旅客用大型テンダー機関車。

C61形(1947~1948)並びにC62形(1948~1949)は戦後混乱期の旅客輸送に、貨物用機関車のボイラーを汎用して、これにC57,C59の足回りを組み合わせたとされる。

C63形が1950年代に計画されたが、設計段階で終わり、製造はされなかった。(東京駅・丸の内口の待ち合わせ場所『動輪の場所』はC62形15号機の動輪である)また、E10形が1948年に日本最大級、最強のタンク機関車もつくられた模様。

C10形(1930~1931)、C11形(1932~1944)が都市近郊列車、ローカル線、入れ替え用小型機関車として製造され、C11形は全国で汎用性の高い機関車として重用された。(JR新橋駅前に展示されているのはこの機関車である)

C12形(1933~1947)はC11形より小型軽量のタンク機関車である。

動輪が四輪の貨物列車用蒸気機関車としては、D50形(当初、9900形、1922~1931)、D51形(1936~1945、通称:『デコイチ』)が幹線貨物列車用大型テンダー機関車として、戦時体制下で100両以上製造され日本の最大記録をつくった。C52形(1943~1945)は日本最大の貨物用テンダー機関車。

 

 

日本のC62型、蒸気機関車の図面。最大の旅客用機関車

 

(2)電気機関車:

この機関車は、動輪の数を、A,B,C,D,E,F,~と表記している。

=アプト式電気機関車:EC40形、ED40形、ED41型、ED42形

=直流機関車(貨物用):EB10形、ED10~24形、EF10~16、EF18、EH10.

=直流機関車(旅客用):ED50~57形、ED60形(1958~1960)ED61,62形。

=EF51形~EF59(EF55は流線形機関車)、EF60形~65.

=EF66形(1968~1974;JR貨物は1991年まで製造)

=交直両用電気機関車:ED30形、~46、EF30形、80形、81形

JR貨物;EF2000(1990)、EF210(1996)、EH200(2001)、EF510(2001)、EH500(1997)

ニックネーム:JR貨物で、主にコンテナー輸送。

『桃太郎』:EF210(1996)

『金太郎』:EH500(1997)

これらの機関車は、JR新川崎(鶴見操車場)機関区で見られる。

 

ED10型電気機関車。(イラスト:エンリケ設楽)

 

(3)等級記号:

“イ”:一等車、昔の特急『つばめ』号の最後尾の展望車。

”ロ“:1969年5月10日以前の一等車、その後の『グリーン車』

“ハ”:普通車、1960年6月11日以前の三等車。

 

(4)電車記号:

“クモ”:運転台)+オーター付

“モ”:モーター装備

“ク”:運転台装備

“サ”:付随車;運転台もモーター装備も無し。(グリーン車は“サロ”)

 

(5)客車:

重量により分類記号を付けている、“コ”;22,5トン未満。

以下、ホ,ナ、オ、ㇲ,マ,カ、など。

『ロネ』:A寝台、『ハネ』:B寝台、『シ』:食堂車、『ユ』:郵便車、

『二』:荷物車、『ミ』:運務車:GHQ占領の記号。

 

(6)貨車:

・有蓋貨車:『ワ』;有蓋車ワゴン(ワムの“ム”は重量記号)

『カ』:家畜車(豚。牛)、『パ』:家禽車、『ナ』:活魚車、『レ』:冷蔵車。

・無蓋貨車:『ト』:トラック、『コ』:コンテナー車、『タ』:タンク車。

『ミ』:水槽車,『キ』:除雪車、『ヨ』:車掌車。

子供のころは、蒸気機関車、電気機関車がけん引する貨物列車は100両ほどの貨車を引いていたが、今は、トラック輸送、コンテナー輸送の発達で短い編成となり、貨物の操車場も広いスペースは必要なくなり、JRも操車場の整理縮小により駅前マンションなどが増えるようになった。

追記として、新幹線はすべて記号で、『100系』、『200系』、~『N-700系』など。

私鉄は、京浜急行が『デハ230形』など、この京浜急行の小学校時代の先頭車両は運転台が進行方向に向かって、左側にあり、真ん中の扉の進行方向右側に座席があって、そこに座ると運転席よりも、もっと前にあるようで、小学校の友達とその席に乗って、川崎や品川まで行ったことがあった。

 

以上
エンリケ設楽

 

【資料9】

  1. 『蒸気機関車の興亡』、斎藤 晃 著、1996.1.31.NTT出版
  2. 『RED NORTE』The Study of State-owened Railways,in the North of ChileIan Thomson,1997,A locomotive Tnternational Publication』
  3. 『Csao Redonda y Patios』Guillermo Garza Galindo,1、Junio de 1997,Mex.』
  4. インターネット・ウイキペディア。
  5. 『メキシコ革命』の時の蒸気機関車、著者所持のセピア写真より。
  6. ペルー・マチュピチュ観光列車からの蒸気機関車、エンリケ設楽撮影、1971.3月、ペルーにて
  7. イラスト:ED10・電気機関車、エンリケ設楽。

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