「雄鶏は世界で鳴く」(記憶を記録に)= 私とニワトリ “鶏”の伝播の歴史、中南米へは =

2020.12.31

 

鶏を飼って=鶏舎の設計,習性、病気

 

私は、横浜生まれ、横浜育ちであるが、新潟の村松、福島の会津若松の疎開先から戻って、小学校三年の初めに横浜市西区西戸部の戸部小学校へ編入し、上原の高台の祖父母の家で暮らすことになった。終戦直後で周囲は焼け野原であったが、幸い祖父母の家は空襲をまぬかれ、このころから広い庭で鶏を飼うようになった。鶏小屋は祖父とともに建てて、最初に飼ったのは『名古屋コーチン』であった。薄茶色のつやのあるがっちりとした鶏で、美しいと表現できる姿であった。

その次には、庭の梨の木を取り込んで、かなり大きな鶏小屋をつくり、数羽の『白色レグホーン』を飼った。終戦直後であったので、餌の苦労があり、祖母が畑で育てた野菜にふすまを混ぜてカルシュウムには浅蜊の貝殻を砕いて与えた。その後、同時に物置の片方を改造して、さらに鶏小屋を作り、そこには『ロードアイランドレッド種』を十羽ほど飼った。

プリマロック種と白色レグホーン種 世田谷の鳥小屋にて

鶏は、昼間は土間の部分に足でやたらと土を蹴散らかして虫などを探す習性があり、少し高いところに巣箱を設けて藁を敷いたところに雌鶏は卵を産む。夜になると高い位置に止まり木を設置すると、そこに並んで寝ている。夜は眠ったまま大量の糞をするので、止まり木の下に受け台を設けておくと、毎朝大量の糞を取ることができ、それを祖母の畑の野菜の肥料にした。

このころ、イギリスで『ニューカッスル病』という伝染病が流行し、日本にも入ってきた。この病気にかかると、鶏の食欲がなくなり、やがて腰が抜けて、顔を上に向けて目をつぶるようになり、当時は薬もなく万能薬として使っていた”七色唐辛子“を水に溶かしたものも効果はなく死んでしまった。

私は、中学二年の二学期からは父の都合で東京世田谷の三宿へ引っ越すことになり、そこから赤坂見附の中学校へ通うこととなった。世田谷へ移った後も、鶏を飼うことは止めず、むしろさらに探求心を持って、当時、月刊誌として発行されていた『鶏友』という雑誌を取り、鶏の研究を進めた。

世田谷でも、物置の横に二階建ての鶏舎を建てて、餌箱を改良したり、鶏舎の設計を『鶏友』を参考にして、改造、建設を繰り返した。最初は、『白色レグホーン種』を主体にして飼い、卵から21日目にひよことなる鶏の飼育を行い、鶏の個々の性格を観察して、鶏舎に入っていくと、おとなしく伏せるような姿勢となり、抱いてやると満足する習性が見られ、楽しんでいた。また、雄鶏は脚で蹴飛ばすような仕草をすると闘争心を掻き立てる習性がある。

やがて、鶏の種類も増やし、『プリマウスロック種』、『ロードアイランドレッド種』などの肉卵兼用種も飼い、餌の工夫もして、鶏卵の黄味の部分の色をさらに濃くするために餌の配合の工夫をしたりして、ふすま、米ぬか、麦、魚のあら、そして、野菜畑は無かったので、空き地の雑草,“あかざ”を刻んで配合して、毎日、餌を学校へ行く前に早朝に起きて、配合の工夫を楽しんだ。

雑誌、『鶏友』には、毎月、一般情報の他に病気、鶏舎の工夫などが記載されており、学校が休みになるたびに、鶏舎の改造設計図を描いて,すぐ近所の材木屋へ行って材料を購入して改造を重ねた。近所からは、お宅は大工さんですかと言われたこともあった。

世田谷の鶏小屋で鶏を飼育する高校生の頃の著者本人(エンリケ設楽)と妹。

あるとき、『鶏友』に“バタリー鶏舎”という特集が記載されていて、これも、二階建て、三階建ての移動式のものを設計して制作してみた.これは、一羽一羽独立した狭いスペースに入れて、表側に餌箱と水入れを設置して、床は簀子式で、産んだ卵は設計した簀子の角度によって、産んだ後に固くなった卵が自然に転がり出ることで、餌箱の下の部分で止まるようになっている。また、糞は簀子の間から下へ落ちるようになっており、その受け床の部分から,かき出せるようになっている。

鶏の飼育研究は、鶏卵は食べるが鶏肉は一切食べないことを基本としており、雑誌『鶏友』に病気の特集があると、そのときに病気で死んだ鶏を、必ず原因究明のため解剖を行った。鶏には『前胃』と、その後に『胃腸』があり、さらに『砂肝』として消化器官がある。その前胃の部分に、最初餌を大量にため込み、それを徐々に胃腸へ運んで消化してゆく仕組みで、このため若鳥は餌を与えた直後には胸の部分が大きく膨らんで、食べた麦などの粒が外側から透けて見えることがある。

さらに解剖して病気の原因を究明するときの経験では、胃腸の中に腫瘍が一番多くみられ、原因は『胃がん』であったように思われる。また砂肝と言われる消化器官では、本当に砂と砂利が混じったものが摘出された。さらに、鶏には『輸卵管』があり、入り口から何日か先の産卵される鶏卵がつながって官の中に見られる。雌鶏が産卵するとき、卵が出た時は、卵の表面は柔らかく、ぶよぶよしているが、やがて空気に触れて表面が固くなり、バタリー鶏舎の場合、簀子に沿って転がり出てくるのである.また、地鶏として、少し高いところに産卵のための箱を置いて藁を敷いてやると、そこへ入って産卵して産むと、『生んだぞー』と、コッコ、コッコと鳴き声を発して知らせてくれる。雄鶏は、まだ薄暗いうちから、コケコッコ―‼『早く起きろ』と鳴く。私は早く起きて、寒い冬の朝も餌づくりをして、自分の朝食より鶏たちを優先して、慌てて学校へ急いだ。

こんな訳で、将来は気候温暖な静岡県あたりに住んで、鶏をたくさん飼ってのんびりしたいと思っていた。そして、数は減ったが、大学卒業まで鶏を飼った。

 

 

鶏のルーツ =アジアから世界へ=

 

万葉集にニワトリの古名『カケ(鶏)』を意味する言葉として、また、古事記にも『カケ』の枕詞として、『ニハツトリ』(庭にいるトリ)は用いられている。古名『カケ』は鳴き声から名付けられた、『神楽酒殿歌』(神道における神事)に”鶏はかけうと鳴きぬなり”の例がある.漢字の鶏は、『紐でつないで飼う鳥』を意味する会意文字説(漢字のでき方の一つ)と『ケイケイ』と鳴く声をまねた擬声語説がる。また、『倭名類聚抄』(わめいるいじゅしょう:平安中期の辞書)には、『六畜:牛馬羊犬鶏豚』とあり、ニワトリは家畜として古くから大切にされた。

日本には、紀元前300年、弥生時代に伝来されたと言われ、埴輪(はにわ)にも多く見つかっている。鳥類の家畜化(家禽)で一番古いのがニワトリで、その祖先はタイ王国の東南アジア原野に棲息している『赤色野鶏』(Gallus,Gallus)。

その中でも、赤色の耳朶(しだ:みみたぶ)野鶏と白色の耳朶野鶏の二つの亜種がいて、これが現在のニワトリの祖先である最初に家畜化された時の目的は『未明の時を告げる(赤色野鶏の習性)の時計台の代わりに利用された。中国の歴史書に『函谷関の鶏鳴』(かんこくかんのけいめい)として戦国時代に『奏』が設けた関所、”函谷関“でニワトリの鳴き声を合図に、関所の開門を行ったとされ、この関所は、河南省霊宝県の西南に当たる。

また、雄鶏の闘争本能を利用して、『闘鶏』として利用された。日本の歴史では、二代将軍、足利義詮(よしあきら)が若い時から闘鶏が好きだったと伝えられている。

元来、日本の闘鶏は、『鶏合わせ』と呼ばれ、『占いごと』にされていた。闘鶏が『賭け事』として行われるようになったのは、江戸時代初期とされている。

海外では、赤色野鶏の本場であるタイ王国でも闘鶏は有名だが,かけ事ではなく、『喪に服する家族を慰問する行事の一種』という説がある。中南米では闘鶏は盛んである。

世界で家畜化されたのは、『東南アジアが最初』で、その直後、北西に位置する中国に伝播していった。この証明として,約8000年前のニワトリの骨が、中国大陸各地で発見されている。また、西インドでも4500年前のニワトリの骨が発見されている。

中国では、ニワトリの用途は時計代わりと共に肉用にもされていたと言われている。

一方、欧米諸国へはシルクロードを通って、中国から伝来し、古来から西洋の先進国であったギリシャやイタリアのローマに伝わったのは、約3000年前とされる。

ローマ人はニワトリを食肉用や採卵用に育種してゆき、イタリア以西の欧米諸国に伝播し、さらにニワトリが7世紀のサラセン(イスラム)帝国の海外出兵に伴い、その後北アフリカへ伝播した。

 

 

鶏の米大陸への伝播 =人の移住に伴って世界へ

 

世界のフライドチキン、KFCの誕生地『米国』に伝来したのは、アジア、西欧諸国より時代は下がって、15世紀末、コロンブスが米大陸を発見した以前で、スペイン人、イギリス人によって伝えられたとされている。

おそらく、コロンブスの1492年の第一回航海後にカリブ海諸島にスペインの植民地が建設され、拠点への移住が開始されたことに伴い,ニワトリは『人の移動(移住)に伴って世界へ広まった』のであった。

牛や馬は世界各地の野生化したものを現地で家畜化したのとは異なる。

ニワトリを採卵用や肉食用種に改良したのは、古代ローマ人で、彼らは紀元前350年頃に、鶏卵と鶏肉を盛んに食べていた。その食文化が地中海諸国に伝わったとされている。5世紀中期になると、古代ローマ人の衰退がはじまったので、彼らによるニワトリの飼育、品種改良も頭打ちとなった。

 

 

鶏の飼育と種類 =白玉系ニワトリと赤玉系ニワトリ=

 

1869年、当時のイギリス国内で飼育されていた主なニワトリの肉用、採卵品種として『1世紀種』、『ゲーム種(英国産)』、『マレー種(マレーシア産}』『コーチン種(別名上海種、中国産}』、『スペイン種(スペイン・ベルギー種)』、『レグホーン種(イタリア原産)』が挙げられる。このようにイギリス国内で多種のニワトリが飼育されていた。

日本国内でも、コーチンは『名古屋コーチン』として有名な卵肉兼用ニワトリとなった。

また、鶏卵の色として二種類あり、『白玉系ニワトリ』で有名なのは『白色レグホーン』でイタリアのトスカーナ州にある港町〟“リボウルノ特産”のニワトリで、スペイン種と共に地中海沿岸種ともよばれている。

これが1858年に米国へ輸出されて以来、国内では民間育種業者により、育種改良の結果、産卵能力に優れた種類となり、年間230~290個を産卵した。私の飼っていた白色レグホーン飼育の経験からも、配合飼料や鶏舎の住環境によって産卵量が増すこともあった。

『レグホーン』という名前は、イタリアの港町リボウルノ(Livorno)の英語名レガーン(Leghorn)をローマ字読みにしたことに由来している。

他に、白玉系としては『黒色ミノルカ種(スペインのミノルカ島原産)』がいるが産卵能力が低いので現在は観賞用として飼われている。

赤玉系ニワトリとしては、『プリマウスロック種』。プリマウスロックは『白色』と『黄色』がり、共に米国原産の鶏卵種で、最初に開発されたのは『黄色』で、1869年に米国で出品されたのが最初の記録である。これは、『灰色ドミニーク種{ドミニカ原産}』の雄鶏に、アジアから輸入した黒色コーチン種の雌鶏を交配させて作ったもので、その後改良して白色種として肉用に飼育された。

その他の赤玉系ニワトリは、『ロードアイランドレッド種(米国産)』、『ニューハンプシャー種(米国産)』が知られている。米国産が多いのは、古代より西ヨーロッパの人々が飼育していたニワトリが『褐色の卵を産む品種』であったので、『白色を好まない傾向』があった。そのため、米国へ初期に移住した人々(英国人など、西ヨーロッパ人)が赤褐色の卵を産むニワトリを米国へ持ち込んだのである。

 

 

鶏肉生産 =人間の食文化におけるニワトリ=

 

鶏肉生産において、中国、インド、ブラジル、東西アジア、メキシコで増加、1970年、生産量の多い国は、米国、旧ソ連、中国、フランス、日本、2005年には、米国、中国、ブラジル、メキシコと変化して、日本は世界の10位であった。

これは、『ブロイラー種』(英語名Broil)という、40~50日の若鳥を食肉用として出荷する展開が大きくなった点にあり、また、第二次世界大戦終了後、牛肉が盛んに使われて、深刻な肉不足を解消するために、米国内で様々な品種の交配、交雑が行われたことも影響している。

中南米地域でも、焼き鳥レストランを見ることが多いし、代表的なのがKFCの看板で、あのカーネル・サンダースおじさんの姿は目立つ存在である。しかしながら、ブラジルの街道筋を車で走っていると,地鶏の店、『フランゴ・アサード:ポルトガル語の焼鳥(Frango・Asado)の店が沢山ありなかなかの味である。エクアドルのリファイナリー建設工事で滞在しているときは、首都のキトーから南へ一時間ほど車で走ったところに、アンデスを見渡せる高原の一角に小さなコロニア風の一軒家の、元飛行機のパイロットが経営する焼き鳥レストランがあり、店の名前は『ボナンサ』で、炭火の窯で焼く、一羽丸ごとの地鶏は最高で、日曜日には、よく日本醤油をもって食べに行って、一人一羽ぐらいを平らげた。このレストランの地鶏の味は美味しかったが,それにもまして楽しかったのが、釜からジュージューと焼きたての鳥を持ってくる爺さんの姿が、何とも表現できず、御盆の上にのせた焼きあがった鳥を、前かがみでテーブルへ運ぶ姿が、『鶏が一羽の丸焼きの鳥を運ぶ姿』と表現するのがピッタリであった。

また、開発コンサルタントの仕事で、中米のエルサルバドルの東部経済開発調査では何回となく東部地域を訪問したときに、やはり、街道筋に焼き鳥レストランがあり、そのチェーン店の名前が『ポーヨ・カンペーロ(Pollo Campero;スペイン語で地鶏)}の味が抜群で、これもよく通ったが、エルサルバドルではKFCが進出していたが、味の良いポーヨ・カンペーロが勝利して、KFCは撤退したと聞いた。

また、このポーヨ・カンペーロは米国のテキサスへ進出したとも聞いている。

エルサルバドルの開発調査では、東部農村資源調査として、『地産』の意味で小農家にニワトリを飼育して、卵の生産はもちろん、その鶏糞を肥料として地域特有の野菜を生産して出荷する計画,『アビオルタ計画(AVI—HORTA) :スペイン語のAvicola :養鶏、Hortaliza:野菜』を提案して、コスト計算も行い、中米各国のニワトリの卵と肉の生産消費統計調査も実施した。

コロンビアには『アロス・コン・ポーヨ(Arroz con Pollo;鳥めし)』がパナマには『サンコーチョ・デ・ガジーナ(Sancocho de Gallina);水炊き』などが有名である。

 

 

鶏の民芸品とエピソード =時計、幸運、十二支、土偶=

 

よく、落語的解釈として、『ニワトリという字はどう書くのか?と問われて』、ああそれはね、“塵溜偏に蹴散らかす”(ごみため編にけちらかす)と書くんだよと答える解釈をお聞きになったことがあると思う。これはもちろん冗談であるが、ニワトリの習性を表す表現でもある。今はなかなか見られなくなったが,わたくしの子供のころは、ニワトリは放し飼いで、自分で餌を探すために、よく、近所の塵箱の下を両足でひっかきまわしてミミズを探す姿をよく見かけた。日本の十二支に登場するニワトリも様々に表現されていて、正月の飾りとしては興味あるものが多い。さらに『酉の市』では“くまで”が縁起物として、商売繁盛目的で売られている。『酉』は昔の時を表しており、今の午後6時ころと言われていてニワトリは『時』を表していた。

私は、中南米を訪れるたびに『ニワトリの民芸品』に興味をもって店に入っていったこともしばしばで,わたくしは酉年ではないが、なんとなく飼っていた時からの関心でつい見てしまう。メキシコでは田舎へ行くと闘鶏が盛んで、男たちは賭けに夢中になっている.しかし、買ったのはニワトリの絵皿になった七宝焼きで、鶏の目の輝きが素晴らしい。パナマでは、素焼きの6羽のニワトリが庭で餌をついばみながら遊んでいる姿が かわいい焼き物である。アルゼンチンのブエノスアイレスの骨董市の開かれる広場の前にある店では、ウインドウを眺めていると、面白い陶器の人形に目が釘付けになり、

それは、裸で地面に座っている男の子のおちんちんを二羽のニワトリがつつこうとしている、かわいらしい滑稽な人形であるが、すぐに買ってしまった。ウルグアイのモンテビデオにはいろいろなシンプルな素焼きのニワトリの焼き物が多く、これも何種類も買ってしまった。パラグアイのアスンシオンでは、さらに素焼きの素朴なやきものに簡単な色付けをした物が多く、ちいさな ツボの中に藁が敷いてあってその中で卵を抱いているニワトリを買った。韓国から親父が買ってきてくれた雄鶏の6羽の陶器の箸置きは気に入っている。

 

 

奇跡と幸せを呼ぶGALO (鶏)=ポルトガルの伝説と民芸品=

 

ポルトガルには、雄鶏(ポルトガル語でGalo )の民芸品がある。これは、『真実の証、バルセロスの雄鶏』として知られている。このバルセロスはポルトガル北部の田舎町で、そこに伝わる伝説がもととなっている。

この伝説は。あるとき、この小さな村に一人のスペイン、ガリシア地方から巡礼に来たガリシア人が宿を取った。そのとき、この町には『盗み』が横行していて、その泥棒がなかなか捕まらなかった。ここの村人たちはこの旅人に疑いをかけ、捕まえて絞首刑にしようとした。その旅人は無実を主張したが、最後に、ニワトリの丸焼きを食べたい、そして、裁判官に会いたいと嘆願する。

しかし裁判官が駆けつけたときには、刑が執行されていた。ところが、彼の首に巻かれていたロープが緩んでいたために、奇跡的に一命をとりとめて、無罪となって釈放された。この若者は、サンチャゴ巡礼を無事に終えて、数年後に再びこの田舎町を訪ね、奇跡を起こしてくれた神に感謝して、聖母マリアと聖ヤコブに感謝をささげる十字架を建てた。現在も、バルセロスのブラガンサス公鄭邸跡には、この伝説にまつわる十字架{セニョールドガロの十字架}が残っている。

この石碑には刑に処される巡礼者と雄鶏の姿が彫刻されている。

こうして、『幸せのシンボル』は『ガロの置物』として親しまれている。

 

中南米の鶏をシンボルとした民芸品のイラスト illusted by エンリケ設楽

 

 

最後に、ニワトリの鳴き声は、日本語では『コケコッコ―』、英語では『クックヂュードウルヂュー(Cook-a-doodle-doo)、スペイン語では『キイキイリキイー(Quiquiriqui)』

中南米でよく聞かれるのは、『鳩』は日本では、“ポッポ、ポッポ”と鳴くというが、どうして、あれがそう聞こえるのか?と聞かれる。メキシコでは、“ククルクー”という、英語では、”クー(Coo)“である。

 

エンリケ設楽

<資料>;

1)Farmhist.com/category8/entry59.htmal

2)インターネット『exciteニュース』

3)民芸品写真(エンリケ設楽)

4)イラスト・ニワトリ(エンリケ設楽)

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