記憶の歴史探訪:『メキシコの独立と共和制確立に貢献した二人』 = ミゲル・イダルゴとベニート・フアレス =

2020.9.1.

 

ラテンアメリカ地域の中で、私のもっとも好きな国、『メキシコ合衆国』については何回も調べているが、今回の”巣ごもり”の機会に、再びメキシコについて、{メキシコ高校教科書}(日本語)”メキシコの歴史“のかかる歴史探訪として読み返してみた。

メキシコは”アメリカ合衆国“という、アングロサクソンの国と隣接し、その植民、独立闘争の歴史も大きく異なり,たびたびヨーロッパの国々の干渉を受けるとともに、隣国、アメリカ合衆国とは争いの挙句、領土の半分を取られてしまった。

そして、『独立闘争』においても、複雑な過程を経て、最初の叫びから、約10年の年月を要して独立を達成したが、その後の共和制の達成、確立に当たっては、外国の干渉により、立憲君主制、自由主義の紆余曲折を乗り越える必要があった。

今回は、この独立運動から共和制の過程で、メキシコに貢献した二人の人物に焦点を当てて検証してみることにしたい。

ミゲル・イダルゴ (Miquel Hidargo y Costilla 1753~1811)1748年から1764年にかけて生まれた若者たちのクリオージョ(Criollo:植民地生まれのスペイン人)グループは,暴政、大飢饉に我慢できず、また、フランス革命、アメリカの13のイギリス植民地の独立に影響され、政治や社会の勉強を通して、専制主義と不平等を取り除くことで、メキシコの未来は開かれると考えた。こうして、首都や地方都市でスペインの統治体制に反対する動きが広がった。

 

ミゲル・イダルゴ (Miquel Hidargo y Costilla 1753~1811)illustrated by エンリケ設楽

 

1808年、ナポレオンがスペインを占領すると、もはや自らをスペイン人と感じなくなっていたメキシコ人たちは、このスペインの危機を利用してメキシコの独立を試みるようになった。

しかしながら、クリオージョ貴族にとっては『独立』とは、自分たちの政府を設立するため、本国から、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を分離すだけを意味していた。彼らにとっては、スペイン人が独占していた役職に就くつもりでいた。『政治を変えようと願った』が、それは、あくまでも、スペイン人植民者によって導入された、経済的、社会的構造を改変しないことが前提であった。

〝ドロレスの叫び“:多くの場所で謀議が行われていた中で、計画が発覚すると、武力行動に立ち上がった。

それは、1810年9月16日、日曜日の朝、イエズス会の学院で学び、統率力と聡明さをそなえ落ち着いた老人で、グアナファートのドロレス町の教区司祭を務めていたミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャ神父が、囚人たちを釈放して役人たちを監獄へ閉じ込めて、教区民を集めて、この日の朝、ミサを開き、悪政打倒を唱える大義に向かって団結するよう扇動した、この演説が『ドロレスの叫び』と名付けられている。

内容としては、『フェルナンド7世、万歳』、『われらのグアダルーペ聖母、万歳』、『悪の政府に死を』で、イダルゴは司令官に、仲間のアジェンデは中将に任命され、1810年9月28日にイダルゴ軍はグランディスタの穀倉に立てこもってスペイン軍を破り、グアナファートを制圧した。その後進軍するが、徐々に王党軍の優位性が増すようになった。

イダルゴ神父が教区を出た時は、600人ほどで、それが数日のうちに10万人に膨れ上がったが、その大半は、鉱山、農園、織物工場の労働者、下級のクリオージョでまともな武器を持たず武装デモ隊であった。

1811年1月ごろになると、徐々に敗北が目立つようになり、イダルゴとアジェンデの間に見解の相違が生ずるようになった。イダルゴは社会構造と経済構造を変えようと計画、一方のアジェンデは既存の秩序を維持したまま、クリオーリョの構成する政府を樹立しようとした。1811年3月、コアウイラ州で仲間がとらえられ、一か月後にイダルゴも処刑されて独立闘争は終結の事態となった。

この一年に、イダルゴは改革の様々な命令を出し、その精神は、モレロス神父にひきつかれるが、1815年12月22日、モレロス神父もとらえられ、独立の達成は、1821年9月27日、スペインが派遣した代表と,アグスティン・イツルビデ(南部軍最高司令官)との間の『コルドバ協定』まで待つこととなった。

ベニート・フアレス(Benito Juarez Garcia,1806~1872)もう一人は、『国の父』と言われて、メキシコ首都国際空港の名前、Aeropuerto Internacional Benito Juarez, Ciudad De Mexicoに、その名を残す、ベニート・フアレスである。

ベニート・フアレス(Benito Juarez Garcia,1806~1872)illustrated by エンリケ設楽

彼は、メキシコ南部オアハカ州の先住民、サポテカ族の出身で、14歳ぐらいまでスペイン語が話せず、猛勉強の末、法律家となってオアハカ州知事を経て中央政界に上った人である。

オアハカ科学芸術院で法律を学ぶ中で、絶対主義からも、軍部からも、宗教からも独立した国家を建設する。そして、法の支配下での文民によって統治される国家を築くことを目標とした。

1821~1876年のメキシコ国民国家形成期には、『君主主義者対共和主義者』、『連邦主義者対中央集権主義者』、『自由主義者対保守主義者』の議論がなされたが、このイデオロギー的対立を説明するのは難しい。そして、この間に世界では『イギリスの産業革命』、『フランスの啓蒙主義運動』、『北アメリカの13のイギリス植民地独立』、『フランス革命』の変化が起っており、このイデオロギーの基本は経済的・政治的『啓蒙自由主義』である。

そして、『権力分割』,すなわち、国家と教育に対する教会権力関与の制限など、スペイン本国の『カディス憲法』がヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)の啓蒙思想クリオーリョに支持されることとなった。

 

1823年2月の現状

 

400万平方キロメートルのメキシコの国土は自治権を求めて混乱した。領土の大部分は、先住民の住むところで、各地の伝統的実力者,カシケが支配、その他は独立戦争時に台頭した実力者、カウディージョ(軍人首領)が統治。様々な共同体、村、先住民地域からなり、大多数の人々にとって、国家、国民と言う考えは存在しなかった。

従って、国家の建設は少数者、すなわち、クリオーリョ、その中での連邦主義者と中央集権主義者に分かれていた。

1824年1月、連邦主義者で構成された制憲議会で、『メキシコ合衆国』と呼ばれることが定められ、1824年10月24日、『1824年憲法』が宣誓された。

独立、自由、主権を持つ、19州、4直轄領、1連邦区の形態で,代議員制からなる共和国が採用された。しかし、代議員は,司祭、軍人、官僚、市参議会{カビルド)に指名された人に限られていた。したがって、国民を代表しないなかで初代大統領を選んだものの、国家は破産状態で、スペインの再征服に脅かされ、サンファンデウルワ要塞は占領された。

メキシコの国内混乱は、党派争い,カウディジョの武力争い、そして、アントニオ・ロペス・デ・サンタアナに乗っ取られた、ベラクルス,タマウリパス,サカテカス各州での大蜂起。

サンタアナは1833年の大統領選挙で当選した。

 

テキサスの植民と独立

 

テキサスは、メキシコの副王時代には無人の地でした。1810年、スペイン王室は、モイヤス・オースティンにスペインの法律とカトリックを遵守する条件と引き換えに、300家族がテキサスに定住することを認めた。その後、諸条件をもって北アメリカの家族の入植を受け入れたが、これらの条件は破られ、1835年、テキサスは独立を宣言した。

これに対して、メキシコのサンタアナは国軍を組織して、1836年3月6日に『アラモの砦』を攻撃し、これを破ったが、深追いして捕らえられて、その釈放と引き換えに、テキサス独立を承認して『ベラクルス条約』に署名した。さらなる国内混乱の中、この敗北で中央集権主義者たちは距離を置くようになり、1838年のフランスのメキシコへの第一次侵攻が始まった。国内混乱は収束しないなか、1844年の総選挙でサンタアナ将軍が勝利。

独立達成後25年間で3つの憲法、13人の大統領が誕生した。

 

米墨戦争

 

1846年3月13日、米国議会はメキシコに宣戦布告し、1847年9月14日、アメリカ軍がメキシコ市を占領した。これに対して、キューバに追放されていたサンタアナが、再びメキシコに戻り、国土防衛の先頭に立ったが、アメリカ軍のメキシコ市占領に当たって大統領を辞任してしまい、1848年2月2日、米墨間の『グアダルーペ・イダルゴ条約』で和平・国境の最終合意がなされ、メキシコは、リオグランデ川以北を失ってしまった。

 

Battle of Veracruz.jpg

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/米墨戦争

 

自由主義派の進路と出発点

 

1854年3月1日,国外追放されていた自由主義者のベニート・フアレスたちがメキシコに戻った。そして、教会が保有する経済的、政治的権力を奪うことを目的として、自由主義政策の法的枠組み構想を実施。これに対して、保守派による3年戦争『レフォルマ戦争』が勃発。この時の大統領コモン・フォルトは『タクバイア計画』(保守派)に基ついて、ベニート・フアレスを投獄するよう命じたが、これに反発が起こり、大統領は亡命に追い込まれた。この時、最高裁長官であったベニート・フアレスが大統領となった。

一方、保守派も大統領を選出して、二人の大統領の闘争となった。この闘争中に、自由主義改革を強化して勝利し、ベニート・フアレスは、1861年1月11日に首都へ戻った。

そして、ベニート・フアレスは共和国の立憲大統領に選ばれたのでした。

しかしながら、イギリス、フランスはメキシコに借金の返済を要求、二年間の猶予が認められたが、ヨーロッパ勢(イギリス、フランス、スペイン)はメキシコを占領することを約束して、1861年12月、外国の艦隊がベラクルスに到着した。イギリスとスペインは、二年間の猶予を受け入れて、直ちに撤退したが、フランスは『君主制確立』を計画して残留した。

一方、保守主義者はナポレオン三世に君主制の支援を要請し、ナポレオンは、これを受けて、ハプスブルグ家のフェルナン・マキシミリアン大公(フランツ・ヨーゼフ皇帝の弟)に依頼。

フランスが陸海空の支援を条件にこれを受諾した。

 

フランスの干渉と第二帝政の成立

 

(ヨーロッパにとって、1847年の米国のメキシコ領土獲得後の経済力、軍事力の発展はアメリカ大陸の脅威であった)

これは、イギリス、フランス、スペインで一致。1862年3月、フランス軍は君主主義者のグループと共にメキシコに上陸。この時、メキシコ軍の指揮者は,イグナシオ・サラゴサ将軍で,部隊はプエブラに集結、5月5日、フランス軍を破り、フランス軍はオリサバへ撤退し、援軍を待った。その間にサラゴサ将軍はチフスで死去してしまう。

1863年6月10日、フランス軍メキシコ市入城。

この間に、自由主義者のベニート・フアレスは、サンルイス・ポトシの共和国政府を移した。

1864年4月10日、マキシミリアンはメキシコ王位を受諾。5月28日、妻のカルロッタと共に、ベラクルスから上陸してコルドバへ、続いて6月12日にメキシコ市に到着した。

 

自由主義帝国

 

しかしながら、フランス軍の将軍は、メキシコ到着後、教会の所有地に関して自由主義者たちが実施した政策を承認した。フランスはもっと自由主義であった。メキシコではマキシミリアンの帝政下、戦闘が続けられたが、1865年になると国際情勢が変化;

=米国内の内戦が終結し、米国のメキシコへの干渉外交展開。

=フアレス派が武器を購入する事への支援。

=フランスが将来的にメキシコから、軍を撤退させると発表。

これまでなされてきた支援が中止されることで、マキシミリアンは退位を決意。

1867年2月から3月、この情勢に力を得た共和国派、自由主義者たちが進軍を続けフランス遠征軍を破り、マキシミリアンは処刑されるが、彼は、改革主義者と本質的に同類の精神で行動したとされている。彼の気高い熱望はメキシコを近代化、民主的社会へ変貌させたと言われる。

そして、1867年、1868年の法律で、ベニート・フアレスは1867年7月15日、メキシコ市到着後、教育に民族主義的様相を盛り込んで、公共学校を建設,各州の神学校は世俗化され、非宗教の実証主義的で民族主義的な新しい学校が都市部に設立された。

1871年の大統領選挙で、フアレスは大統領に再選される。この時対抗したのが、ポルフィリオ・ディアスで、反乱を起こし、その最中の、1872年7月18日、ベニート・フアレスは狭心症にて急死を遂げてしまった。

その後、政界分裂で、このどさくさで、地方での反乱で勝利して、ディアス時代『ポルフィリアート』の時代となる。

 

おわりに

 

スペイン人神父で、メキシコの『独立の父』と言われるミゲール・イダルゴ神父は、1811年に58歳の生涯を閉じているが、そのとき、後の『メキシコの父』と言われ、メキシコの共和制を確立させたベニート・フアレスは5歳であった。

メキシコは1821年の独立達成までイダルゴ神父の『ドロレスの叫び』から11年。そして、さらに諸外国の干渉と国内の自由主義派と保守派の対立の混乱のなかでフアレスが共和制の復興を成し遂げるまでには、1872年まで、さらに50年の長期間を要することとなった。

しかしながら、フアレスの急死後、同じ南部のオアハカ出身のポルフィリオ・ディアスの登場で、さらに独裁政権としての30年の年月を経て、1910年の『メキシコ革命』に続く混乱となる。

エンリケ設楽

 

【資料参照】

  • メキシコの歴史、メキシコ高校教科書、国本伊代監訳、島津貴訳
    明石書房、2009.7.1.
  • メキシコの歴史、メキシコ大学院大学編、村江四朗訳
    新潮選書、S53.3.20.

 

【イラストの説明】

ミゲール・イダルゴ神父の左側は『独立の鐘』メキシコ独立記念日、『9月16日』の前日、9月15日、午後11時にソカロ広場(政庁広場)の国立宮殿バルコニーで、時の大統領が『我々に祖国を与えてくれた英雄、万歳』と叫んで、英雄の名前を挙げて、万歳(VIVA)を唱えることが恒例となっている。

 

ベニート・フアレスの左側は、メキシコ合衆国の国章で、『鷲がサボテンの上に止まって蛇をくわえている姿』で、これは、古代メキシコのメシ―カ族(アステカ帝国の創設者とされる)が北方から移動して南下してくるときに、神のお告げで、この情景を見たところが汝らが都と定めるところと言われて,はからずも、今日のメキシコ市でその姿を見て、そこに都を定めたという伝説にもとずき、その情景をメキシコの国章と定めたとされております。

 

 

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