記憶の歴史探訪:『南アメリカ・二人の独立の英雄』=国名、通貨、銅像、街路、その名はどこにでも=

2020.8.11.

スペインの植民地時代の南アメリカ地域で、その独立を指揮した二人の英雄が存在した。

その二人は、いずれも植民地生まれのクリオージョ(Criollo)であった。二人は国名として、あるいは通貨の単位として、その貢献を称えられて独立後の国々で、銅像が建てられ、街路の名称として、あらゆるところに残され今日に至っている。

出張で町の通りの名前を覚えるのに便利である。

 

二人の英雄の生い立ちとヨーロッパとの結びつき

 

その一人は、1783年7月24日,今日のベネズエラのカラカス生まれのシモン・ボリバル(正式には、Simon Jose Antonio De Santisma Trinidad Borivar Palacios Ponte y Blanco)でカラカスのクリオージョの名家の生まれで、スペインのビスカヤから移住したバスク人の家系であった。

もう一人はアルゼンチンのコリエンテス州ヤへユーの小村に、1778年2月25日誕生した地方のクリオージョで、サン・マルティン(正式には、Jose Francisco de San Martin y Matorros)である。

この二人の共通点としてヨーロッパへの遊学での影響が、その後の二人の植民地独立運動への参加行動に大きくかかわっているのではないかと思われる。

ボリバルは、1799年にヨーロッパへ、そこで哲学者の著書に接して啓蒙思想を受け、共和主義者としての思想を形成した。

また、ミラノではナポレオンの戴冠式に参列したとされ、ヨーロッパ8年の滞在ののち、1807年にカラカスへ戻っている。

一方のサン・マルティンの方は1785年にスペイン軍の父の関係で、7歳でスペインへ渡った。

1789年には、士官候補生として軍隊へ、その後、アフリカやヨ―ロッパの戦役に参加して1808年フランス軍との戦闘で軍功をたて、1811年には師団長となった。同年、27年ぶりにスペインからアルゼンチンへ帰国した。

このように、ヨーロッパで、ボリバルは思想形成を確立し、サン・マルティンは軍人として多大な実働経験をしている。

 

シモン・ボリバル将軍の独立運動と進軍行動*

 

ミラノのナ。ポレオンの戴冠式参列後ローマを訪れ、そこでスペイン領アメリカの独立に生涯をささげる決意をしたとされている。

ボリバルがカラカスへ戻った翌年、1808年にナポレオンがスペイン王位を奪取。1810年、カラカス市会はスペインのベネズエラ総督を追放して、自立政府(フンタ:Junta)を樹立。ボリバルはこれに参加して、イギリスの支援を得るためにイギリスへ赴くが、これは不発に終わる。

このとき、ロンドンでスペイン領アメリカの解放に動いていた、同郷のフランシスコ・ミランダと共にカラカスへ戻り、1811年7月、ベネズエラの独立を宣言した。

そして、ミランダは政府首班に、ボリバルは独立軍の将校となった。

しかしながら、これに対して、スペイン王党軍は各地で蜂起し、ミランダは降伏してボリバルはヌエバ・グラナダ(今日のコロンビア)へ逃れ、そこでベネズエラ奪還の『カルタヘナ宣言』を発して、1813年6月,カラカスを解放して、軍人としての地位を認められるが、再びスペイン王党軍の巻き返しにあって、ジャマイカへ亡命する。

この間に、1814年、ナポレオンが敗北して、スペイン王位が復活し、本国からの遠征軍によりベネズエラ、ヌエバ・グラナダは制圧されてしまう。

片や、亡命していたボリバルは、英国商人の支援を得て,ハイチを基地として、ベネズエラ東部に上陸して、今日のシウダー・ボリバルを基地としてカラカスを目指すが失敗し、1819年、ヌエバ・グラナダの独立軍のサンタンデルと結んで、アンデス山脈を越えて進軍して、『ボヤカの戦い』でスペイン軍を破り、ヌエバグラナダとベネズエラを合邦した『グランコロンビア共和国』の大統領に就任した。

その後、1821年、『カラボボの戦い』で勝利してカラカスを奪還し、そこで起用したスークレ将軍を南方遠征軍とて派遣して、1822年、エクアドルを解放し、ボリバルはスークレ将軍と共にペルーへ遠征。そこで、サン・マルティンが残したペルー副王軍と戦い、1824年、『アヤクーチョの戦い』でスークレ将軍が勝利して、スペイン領アメリカの独立は決定づけられた。

 

サン・マルティン将軍の独立運動と進軍行動

 

シモン・ボリバルとホセ・デ・サン=マルティンの会談を表現したモニュメント

シモン・ボリバルとホセ・デ・サン=マルティンの会談を表現したモニュメント
出典:wikipedia

1810年5月、アルゼンチンでは独立運動が勃発.サン・マルティンはスペインから帰国後、1812年12月3日、ブエノスアイレスの独立軍に参加。当時、独立軍は東部とアルト・ペルー{今日のボリビア}におけるスペイン王党軍の抵抗に悩まされていた。

1813年2月、サンロレンソの戦いで、サン・マルティンが勝利して、北部遠征軍の司令官に任命された。

しかしながら、サン・マルティンは『アルト・ペルーの解放は、チリ―とペルーの独立が先決』との意向を持っており、メンドサ州の知事に就任する。そして、地方でチリ―遠征隊の訓練に当たった。

約2年の準備の末、1817年1月、5,000の兵と牛馬でアンデスを越えて,同2月、『チャカブコの戦い』でスペイン王党軍を撃破、さらに1818年4月『マイポの戦い』で勝利して、チリ―の独立を確定させた。

その後、1820年8月、バルパライソから海路ペルーへ、ピスコへ上陸して1821年7月、リマを攻略して、ペルーの保護者となった。しかし、その先のスペイン王党派の牙城征服は、兵力不足で、北からのボリバルに支援を求めた。

そして、1822年7月、グアヤキルにおける『サン・マルティン/ボリバル会談』が持たれるが、サン・マルティンが期待した支援が得られず、独立戦争の指揮をボリバルにゆだね、ペルーの保護者の地位も辞して、アルゼンチンのメンドサへ戻って、1824年ヨーロッパへ向かった。

 

 

シモン・ボリバルとサン・マルティンの進軍ルート:(イラスト、エンリケ設楽)

 

 

二人の英雄の『グアヤキル会談』の思惑と結論

 

1822年7月26日に両雄の会談が、グアヤキルで持たれたが、内容についての明確な結果はわからないが、サン・マルティン側としては、アルト・ペルーの征服を前にして兵力の支援を要望したのではと思われているが、また、サン・マルティンがボリバル独立軍に加わりたいとの意向を示したとも伝えられている。

しかしながら、二人のヨーロッパでの思想的な考えの違いを検証してみると、北からの勝利の侵攻を続ける勢いのボリバルは、アルト・ペルーの戦いにサン・マルティンを加えさせたくなかったことと、独立,解放を達成した後の政治体制として、ボリバルは『共和制』を基本志向としたのに対して、サ・マルティンは『立憲君主制』志向であったといわれており、その違いが相いれなかった理由と思われる。

ここで、両雄のヨーロッパでの経験からの思想の違いが影響したのではないかと想像される。

 

シモン・ボリバルのパナマ『ラテンアメリカ国際会議』

 

1826年6月22日~7月15日、パナマにおいて、グランコロンビア、ペルー、中央アメリカ連邦、メキシコの参加で、国際会議が開催された。オブザーバーはイギリス、オランダで、アメリカ合衆国は招待されたが、間に合わず欠席となった。

また、チリ―、アルゼンチン、ブラジルはボリバルの影響力拡大を懸念して参加しなかった。

ここで、相互防衛条約が締結されたが、結果として、グランコロンビア議会だけが条約を批准しただけで、ボリバルの構想は不成立に終わった。

ボリバルとしては、スペイン本国が、再び軍隊を派遣してくるのではないか、ということを恐れて域内団結を目指した会議と言われている。結果的に会議に間に合わなかったアメリカ合衆国がニュートラルな立場を維持したと言われる。

 

スペインから独立後の分離独立

 

中央アメリカ連邦は、メキシコから独立して形成されたが、その後、地域の首領の意向が強く働き、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカの5カ国に分かれ、グランコロンビアはベネズエラ、コロンビア、エクアドルに分かれたのち、パナマがコロンビアから分離独立して、4カ国となった。

また、アルト・ペルーはボリバル将軍の名前を取って、ボリビア共和国となった。

二人の英雄のその後は,シモン・ボリバルは、これら独立後の分離独立の責任を取って、1830年ボゴタを去り、直後にスークレ将軍が暗殺されて、カルタヘナに滞留するうちに、ボリバルは肺結核が重くなりサンタ・マルタ島の農園で療養中に亡くなった。

1830年12月17日、47歳の生涯であった。

一方の、サン・マルティンは1829年2月、帰国の意図を抱いて、ブエノスアイレス港に戻ったが、内乱で混乱する祖国に幻滅して下船せずに、ヨ―ロッパへ引き返し、以後フランスで余生を送り、1850年8月17日、72歳の生涯を閉じた。

このような両雄の生涯であったが、ボリバルは敗北、亡命、奪還と戦略上の悩みを多く抱え、一方のサン・マルティンは自身の思い描いた方向に推進できず、両雄共に多難の悩みを抱えたままその生涯を閉じたのであった。

 

以上

エンリケ設楽

 

(資料):1}。大陸別世界歴史地図

『4.南アメリカ大陸歴史地図』東洋書林,増田義郎監修、2001.8.6.

2)ラテンアメリカを知る事典、平凡社、大貫良夫監修、2013.3.25.

3)講義『中南米地域研究』、DTP出版、設楽知靖著、2008.7.28.

 

 

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