地球の裏側『チリの冒険者、ハルさん便り』 ー ラテ研のモットー「ファイト、実行力、責任感」を信念に生きる

2020.07.17

私は1966年卒業、ハルです。(チリでは、ハルで通っています)専攻は、設楽先輩と同じ、工学部応用理学科工業化学です。

ラテ研には、2年生の時に入り、代々木富ヶ谷本部校舎の裏手にあったプレハブの2階の部室に通っていました。

あの頃は、南米大陸へ遠征隊を出そうとプロジェクトを立ち上げ、毎日のように通っていました。

16:40に授業が終わると、部室に直行、18:30からは新宿ステーションビルの喫茶店のバーテンのバイトを24:00までやっていた苦学生でした。

翌日は、08:40からの授業でしたので、結構、大変でした。

しかし、そんな中でも、ラテ研の活動はとても興味がありました。

南米に興味を持ったのは、高校時代にクラスメイトが卒業と同時に、ブラジル移民船でブラジルの日系企業の野球の選手として、旅だった時、横浜で見送った時です。

別に、何か目的があった訳ではないのですが、まだ見ぬ南米大陸にあこがれたのです。

不況のために、海外遠征隊の派遣は実行できませんでしたが、その準備の過程で、いろいろな事を勉強させてもらいました。

大学3年の中頃に単位の殆どをとりましたので、それ以降は、他大学の研究所で、卒論研究に没頭しました。

微生物がテーマでした。内容が面白く、就職もせず、卒業後も、研究生活を続けました。

途中から、カルピス社の開発部門に籍をおいたまま、更に2年間研究生活を続けました。

入社3年目に社の仕事に就きましたが、初めの2年間は、仕事を定時で退社し、夜間、慶応外語に通い、スペイン語を勉強しました。

部活をしていた時には、ほとんど、スペイン語は話せませんでした。

そうこうするうちに仕事も忙しくなり、スペイン語も山てしまいました。それ以降は、南米もスペイン語も無関係な状態でした。

社の保守的な環境に馴染めず、45歳ごろから転職を考え始め、基礎的な勉強をし直し、48歳の時に、ヘッドハンティングによる転職の機会を得て、飲料用原料果汁を専門に扱う、社員30名ほどの商社へ、技術者として転職しました。

小さいながらも、商社であることから、仕事の殆どは、海外でした。品質保証の仕事をしていました。

大手商社もその分野も扱っていましたが、きちんとした技術者がいなかったため、充分に戦える相手でした。顧客の信用が培われると、それが強みとなり、ある時、カゴメから個人的にオファーを受けました。

大きなプロジェクトが立ち上がるのだけれど、宅の社も参加する気は無いかとの話でした。

野菜飲料原料の年間の安定供給を図り、北半球は中国山東省の奥地、南半球は、チリに拠点を持ちたいとの話でした。

チリ国旗

青空に羽ばたくチリの国旗

 

個人的にも興味があり、社としても大規模な事業の機会と判断し、社長を説得して、そのプロジェクトに参加しました。

農薬や肥料の事をほとんど知らない農民たちが農業を行っている中国の田舎や、価値観、常識の異なる南米という土地での仕事は、とても大変な仕事でしたが、その分、何をやっても面白く、10年があっという間に過ぎ、社の売り上げも、入社当時50億円程度だったものが、2倍に増えて居ました。

実績をあげた分だけ、社長への提言はほぼ100%認められました。

外国とは時差があるために、朝は、一番でオフィスのカギを開け、夜中に帰宅することもありました。

やりがいのある仕事で、年月の経つのも早く、60歳の定年を迎えた時には、定年後は、仕事の機会で出来た多くの、チリの友人、知人たちの世界で生活してみたいと考えるようになりました。

しかし、社長が60歳での定年を認めてくれず、65歳になりました。

元気なうちに、南米に置かなければと考え、社長に直談判を繰り返した結果、交代の技術者を探して来たら定年を認めると言い出しました。

丁度、その頃、雪印乳業で品質事故が続き、企業の存続が危ぶまれ、早期退職者募集がされていました。

私の社の顧客でもあり、技術者も数名、懇意にしていましたので、ある人間に、来ないかと声をかけた所、乗ってきました。

そして、入社が確実となったので、67歳の9月末日(2010年)で、晴れて、定年を迎える事が出来ました。

家内には、65歳の頃から定年後は南米で暮らす旨を告げ、毎週、土、日は、四谷のCervantesへ通い始めていました。

9月末からは戦争のような忙しさになりました。一応、渡航までの必要事項と、タイムテーブルを作り、動いていました。10月には、住むアパートを探すために、飛行機の切符を取っていました。

 

サンティアゴ

サンティアゴ 市 センター

 

アパート探しの旅の1日前に、赤羽橋のチリ大使館、領事部へ行き、サンチャゴで、定年後、生活したいからビザを出してほしいと話しました。

しかし、領事部の人の返事はそっけないもので、そんなケースはないから、ビザが出るかどうか分からず、出るとしても最短6か月はかかるだろうと言われました。

住んでいたアパートの契約も終え、引っ越しの荷物を出すだけの状態でしたからあせりました。

しかし、翌日には、アメリカ経由で、サンチャゴに行かねばなりませんでした。

そんな状態で、サンチャゴに着き、アパートを探す中で、チリの友人に、ビザの件を話しました。その友人は、任せておけと言ってくれました。

そして、日本を出てから3日目に、宿泊するホテルに、日本のチリ領事館から電話が入りました。

ビザが出たというではありませんか。1年間の短期滞在ビザです。このビザで1年間の居住実績ができると、2年目に永住ビザの申請資格が得られるのです。

あとで、その友人にお礼を言いましたが、何でそんなにスムーズに早く、ビザが出たのかと聞きました。

彼は、チリでは、大きなファミリーの一員で、チリで大統領を2回務めたことのある人が祖父だとわかりました。

そして、そのファミリーの多くの人が政府内の要職についていて、彼等が動いてくれたと明かしてくれました。

チリでは、永住権を持たないと、銀行の口座も開くことが出来ません。銀行のカードを持たないと、表面的な信用を得られず、不便極まりありません。

これについても、チリ人の仕事仲間が、Banco Santanderの役員にファミリーがいて、保証人になってくれ、口座を開けました。

これ以外にも、一緒に仕事をした仲間が色々と助けてくれました。今では、家族ぐるみの付き合いをしています。

チリでは、中国人や韓国人も多く住んでいますが、日本人に対しては、接し方がまるで、異なります。

いまでも、街中で、お前はChino(中国人)かと聞かれますが、日本人だと答えると、表情も応対もガラッと変わり、温和な対応になります。

日本人の先輩たちが培った風土なのだろうなと感じ、その伝統は大事に守らねばと考えます。

チリの山と自然

チリの山と自然

 

趣味は山歩き、植物観察、魚釣りなど、月に2回程度は1500m程度の山を歩き、週末には10㎞走っています。

気持ちと時間に余裕が出てきたので、ボランティア活動で、市の要請で、毎年、チリ人を対象とした、折り紙教室を開いたり、学校や大学で、日本の文化について話をしたりしています。日本人学校でも、年に一回、授業を受け持っています。

また、何か必要な事があれば、書きますので、以後、宜しくお願いいたします。

ハル(峰村芳春)

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