『メキシコ革命の快男児』=パンチョ・ビリャとエミリア―ノ・サパタ=

2020.5.25.

 

1910年9月16日は、メキシコ独立の百周年記念日であった。30年以上にわたり独裁政権を続けてきた、ポルフィリオ・ディアス大統領は再選のための立候補を宣言。彼を支持する階層は、軍部、大農園主、資本家,教会と上流階級全般にわたっていた。

この動きに対して、反旗を翻したのが,コアウイラ州の大農園の出であり、支配階級の一員であった、フランシスコ・マデロ(Francisco Madero)であった。

マデロは『再選反対同盟』を結成し、全国に広がったが、ディアス政権は、これを力で抑え込みマデロを逮捕して、再選を決め、『独立記念式典』を盛大に開催した。その後、保釈されたマデロは米国のサンアントニオへ亡命、そこから反対運動を起こした。

それは全国で、1910年11月20日、ほぼ自然発生的に蜂起された。

1911年3月にディアス政権軍が降伏し、さらなる混乱の中、マデロも暗殺され、革命運動はさらにクリオーリョ(Criollo:植民地生まれの白人)、カウディーリョ(Caudillo:軍人首領)、ぺオン(Peon:農奴)が入り乱れる展開となり長期化することとなった。

この中で、農民リーダーとして登場したのが、北部のフランシスコ・ビリャ(Francisco.Villa)であり、南部のエミリア―ノ・サパタ(Emiliano Zapata)であった。

ビリャは北部,デュランゴ州サン・フアン・デル・リオで1878年6月5日に生まれたと言われている。

メキシコの資料によれば、“天使と烙印の挟間で”(Entre El Angel YEl Fierro)と評される。

彼は、本名をDeoteo Arango と言い、ヂュランゴ州一帯を荒らしていた山賊(Bandido)に加わったが、その首領、フランシスコ・ビリャが殺されて、その名前を継承したと言われる。

この当時の農奴は自分の土地を一切所有していなかった。

また、ビリャは『義賊』としても農奴の間にその名を高めていた。

メキシコ革命が始まった時、ビリャは32歳となって、山を下りて、故郷チウワワ市に住むようになり、食肉業を営んでいた時に、そこで知り合った人物が、反ディアス派であって、それに加わったとされる。

そして、ビリャはチウワワ州で、反政府活動を広げ、村、農園、牧夫などの仲間を増やして政府軍の小部隊を破り、これが最初の勝利となって、その後、マデロの呼びかけで、チウワワの西、150キロの鉱山,ゲㇾロを占領、さらに南下を続けた。この時のビリャ軍の愛唱歌が、あの有名な『ラ・クカラッチヤ』である。

一方、南のモレーロス州の農民首領となったのが、エミリア―ノ・ザパタであった。

サパタは、『不正な方法で奪われた土地は農民に返還すべき』との主張を持ち、モレーロス州の小村、アネネクイルコ(Anenecuilco)で小作農の子として生まれたとされている。

彼の精神は〟“大地への愛”(El Amor A La Tierra )と評されている。

メキシコ革命の最中、メキシコ市の大統領官邸で出会った二人(左、大統領の椅子に座るパンチョ・ビリャと右、エミリア―ノ・サパタ) 二人ともに権力とは興味なく其々に故郷に帰り暗殺されてしまう。(エンリケ設楽資料より)

彼は、1879年8月8日生まれで、ビリャとは一つ違いである。

ザパタとマデロは反ディアスで一致したが、1911年11月に大統領に就任したマデロが大農園主,商工業者層の勢力回復支援の方向へ傾いたので、関係は険悪化した。

1911年11月27日、『農地解放』の実施を要求して『アヤラ綱領』(Plan Ayala)を掲げて、サパタはモレーロス州、プエブラ州の南東部の山岳地帯で、マデロ政府に宣戦布告することとなった、このサパタ軍の愛唱歌は、これも有名な『アデリータ』である。

1914年12月4日、ソチミルコにて、ビリャ・サパタ会談が行われ、この時の盟約で、首都より北はビリャ軍が、南はザパタ軍が受け持つこととなった。

そして革命後は、両者は大統領になる野心を持たないこと、保守政治家を支持しないことを約束した。

二日後の、12月6日、両軍は首都で軍事パレードを行い、この時両軍は、それぞれまちまちの服装で参加した。

この時の一枚の記念写真が、このパレードが終わった後に国立宮殿で大統領の椅子に座るビリャと、その右に座るザパタとして残されている。

この後、二人は二度と再会することはなかった。

この革命により、『大統領再選禁止』が実現し、二人がもっとも望んだ『所有権の社会化』と言う農地改革、すなわち、『アヤラ綱領の理念』が憲法に盛り込まれたのである。

しかしながら、メキシコの安定化が実現されたのはマデロが蜂起してから、20年後の1930年の『革命党』が創設されるまでかかったのである。

 

※参考資料:Fondo de Cultura Economica,S.A.de C.V.,1987,Enrique Krauze『メキシコ革命物語』渡辺建夫、朝日選書、1985.8.20.

※イラスト:革命の二人の写真
著者がメキシコ在住時代、青空市で売っていたセピア色の写真からコピーしたものです。これは大きなセピア色の写真を、今も本箱に飾ってあります。撮影者はわかりませんがよく使われている写真で、資料の『メキシコ革命物語』の中にも出てきます。

 

(エンリケ設楽)

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