『コンドルのひとりごと』=複雑な国境、海底が隆起したアンデスの海抜4,500メートルを走り抜けて=

ラテンアメリカ研究部の55 年間の”紆余曲折“をアンデ スの地に重ねあわせて話を進 めてみたいと思います。

 筆者 は、2000年5月と2001年 1月、すなわち、南半球の冬 の初めと夏にチリー北端の海 岸都市,アリカから国道11 号線を東へ、アンデス山脈の ボリビアへ向かった。チリー 北端の北海岸はほとんど雨が 降らず、11号線は最初ボリビ アへ向かう鉄道に沿って、や がて尾根が変わって鉄道とは なれて高度をどんどん上げて 行く。

冬の初めは、正しく快晴で真っ青な空の下,土漠色の台地、そして、やがてアンデスの真っ白なシャ―ぺットを掛 けたような6,000メートル級の美しい高峰が現れてくる。ところどころくねった国道の途中で、雪解け水が流れると ころにはアンデス高地のプナ地帯に生えるイネ科の植物、イチョが見られ、そこには4~5頭の一家族からなるラク ダ科の動物ビクーニャの群れを見ることができる。

この国道11号線はきれいに舗装されており、ボリビアとの国境、チュンガラ(Chungara)税関までは約200 キロメートルあるが、その途中にあるものはチリー陸軍の駐屯地が一箇所、往来するトラックの運ちゃん食堂が一軒、 そして、国境税関の手前に美しい水と雪山を水面の映すチュンガラ湖のほとりに観光客目当てに毛織物を売っている 数件のインディへナの露天市を見るだけである。

国境の税関員に、ここの海抜を尋ねると、標高4,650メートルとの 答えが返ってきた。チリー側の国境税関からボリビア側の国境施設はまったく見ることは出来ない。ただ美しい雪嶺 を頂くアンデスの山々、チュンガラ湖、そして通関待ちのトラックの長い列だけであった。

さらに不思議に思ったの はこのチリー国道11号線を物資を運搬して走るのは、ボリビアのナンバーをつけたトラックだけであった。これに ついては、文章の最後の方で触れることとしたい。

つづいて、1月の初め、チリーの首都、サンチャゴで年末の花火とクラクションで迎えた新年早々に北端のアリカ へ飛び、車で国道11号線を東へ、ボリビアとの国境へ向かった。

今度は、南半球は夏で、アリカの海岸ではアンデ ス山岳都市から訪れる観光客で賑わい、一年中咲いているブーゲンビリアとハイビスカスの花が一段と鮮やかにリ ゾート・ホテルの庭と近郊のタラパカ大学とキャンパスを彩っていた。

このような夏日のアリカを発ち、11号線を どんどん高度を上げてゆくと、やがて、どんどん曇り空となり、標高4,000メートルでは霧とみぞれ交じりの雨が降 り続くようになり、車の外は殆ど煙った状況で、5月よりは増水した小川ではイチョの草を食むビクーニャの家族が 窓越しに、ぼんやりと見られるぐらいであった。

気温は零度に近く、車内は 暖房を入れていても厚手の ジャンバーを羽織っていない と寒くて震えるくらいであっ た。

車は11号線のチリー陸 軍駐屯地、運ちゃん食堂を通 過して国境税関に近づいても、 気象はまったく変わらず、み ぞれ交じりの冷たい雨が続き、 インディヘナの露天商も見ら れず、チュンガラ湖は霧にか すむ中で、海抜4,650メート ルの国境税関、イミグレーショ ンに到着した。

ここでチリー の出国手続きを済ませて、木々 も家並みもまったく見られな い平坦な曲がった道を行くと、やがて突然、ボリビア側の国境税関、イミグレーションの建物が現れるが、この国境ゲー トとその周辺に数件の家があるが、その他は何も無く、食べ物を売る数人と、両替を迫る何人かしか、人影は見られ ない。

みぞれ交じりの冷たい雨は相変わらず降り続き、国境は簡単に通過したが、風景は変わらず、木々や家並みも 無く、チリー側と違って、アンデスのアルティプラノの平均海抜4,500メートルが続くだけである。国境からボリビ アの首都、ラパスまでは、300キロメートルの行程で、やがて走り続けるとアルティプラノの東に位置する世界一の 高所、海抜4,071メートルのエル・アルト(El Alto)国際空港に近づくと、いきなり家並みが現れ、ボリビアの人 口の多くを占める山高帽をかぶった先住民族、アイマラ族の人々の姿が見られるようになった。チリーのアリカから 8時間の夏の冷雨のなかのタクシーでの走破であった。

晴れていれば、空港からラパスの町へ下る所で、真正面にイリマニー山の美しい姿も見られず、青空を悠然と飛ぶ コンドルも何処え行ったのだろう。

このラパスの街を訪れるのは数回目であるが、幸い何時も、この富士山より高い町で、私は高山病にもかからず、 到着後,おなかがすいたので、 ホテルでステーキを注文した。

この文章の前半で、“この国 道11号線を走るトラックは ボリビア・ナンバーだけ“と 書いたが、ボリビアとチリー は1883年に”太平洋戦争“で、 ボリビア・ペルー連合軍とチ リーとの戦いで連合軍が敗れ て、ボリビアは太平洋への出 口の領土を失い、以来、今も ボリビアとチリーは外交上の 断交が続いている。

その後、度々の話し合いで、 チリーとの国境、チュンガラ からアリカ港までの国道11 号線は、チリー政府が建設し、トラック輸送は“ボリビアのトラックに限る“と約束をした。

また、連合軍に加わったペルーも敗れたので、アリカ の近辺をチリーに取られてしまった。このために、アリカ港の一つの埠頭をペルーのタクナから鉄道を引いて、ペルー 専用とする約束を交わした。

さらに、鉄道の民営化に当たっては、アリカからボリビアへ鉱物と穀物を輸送している鉄道では、アリカからボリ ビア国境まであはボリビア資本の企業が落札し、ボリビア国境から内陸ラパスまではチリー資本の会社が落札して運 営している。 このように、非常に複雑な歴史を持つこの地域は、民族的にも、ケチュア族、アイマラ族、グアラニー族、そして、 その後のスペインの植民地化という文化の衝突の地でもあった。

わがラテンアメリカ研究部の歴史も、55年を振り 返ってみると、今回の『記憶と記録』に示したように平坦ではなかったように感じられる。 しかしながら、これからは末永く、みんなの努力で進行させていきたい。

Enrique Tom.

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